その安っぽい造りの薄い扉は今宵も容易に開き、森田を中へと招き入れた。
…こうゆうの、不法侵入って言うんだよなぁ、と軽く後ろめたさを感じつつ性懲りも無く薄っぺらい扉に触れる。
この見るからに安普請なボロアパートは、初めて平井銀二と仕事をした思い出の地である。
自ら抱え込んだ負債に首が回らなくなった連中相手の裏金融。
その光景を目撃するまで、自分が今暮らしている世界の仕組みの何たるかを知らずに生きていたのだと思い知った。
まるで医者が患者を個別に診察するような、一見穏便なその風景の中にはしかし、確実に狂気が潜んでいた。
泣き崩れる男の肩を優しく抱いた彼の、神々しい悪魔のような、美しく残忍な人の表情を森田は生涯忘れられないだろう。
自分の残り全てを彼に託してしまったが最後、後に待っているのは、破滅か虚無。
そのどちらかだ。
自分に待っていたものは…多分虚無の方であろうと思う。
昼は左官で夜は工事現場の交通整理。一日が明けてから暮れるまで肉体を酷使する日々を送るのは、そうでもしなければ気が狂ってしまいそうだったからである。
平井との別離後まっとうな人生を細々と歩んでいる森田は何時からか、まるで何者かに呼び寄せられでもするかのように度々このアパートへ訪れる。
夜勤上がり、ここからそう遠くない自分の住まいがあるにも関わらず、寝袋一つだけを持参して一晩を過ごすだけ。
テレビも、冷蔵庫も、備え付けの備品は一切無いこのアパートが唯一誇る設備が、平井も度々使っていたシャワーである。
冬の厳しさも佳境に入ったこの時期、足裏を撫でる畳のヒヤリとした冷たさにゾクリとする。
部屋の中であろうと住人の居ない空間は外気とほぼ同じ室温を有している。
仕事明けで疲れボロボロの体になっていると言うのに、まるで苦行だ。
安眠を得る為に訪れているのでは、決して無い。
では、何故?
しょっちゅうこの邂逅の地に来ていれば、いつかまた彼が現れるかも知れないとでも思っているのか。
…女々しいにも程がある。
けれど彼の言葉を、息遣いを、存在を、無意識のうちに求めてしまっているのは紛れも無い事実。


自分から、切り離したのに。

あまりの寒さに歯の根が合わない。畜生…何てボロいアパートなんだ。
持参した寝袋を広げ、仕事着のまま潜り込む。
空腹だが、此処で飯を食う気にはなれない。顔半分まで潜った寝袋の下から、天井を見る。
いつか、彼が風呂敷で覆った照明。今も電気は点くのだろうか?そう言えば此処で灯りを点けた事が無い。
冷蔵庫の中のような、粗末な部屋で何を夢見るつもりなのか。
自分の愚行に嘲笑しつつ、もう習慣になってしまったこの行為に今宵もケリをつけるべく森田は静かに目を閉じた。
…どの位時間が経過しただろうか。
漫然と眠れぬままの自我を抱え、室内の宵闇に目を凝らす。
厚ぼったく古いカーテンからは路上の街灯が薄く差し、暗闇に慣れた目が部屋の有様を捉える。
漆喰の薄い壁の向こう側に、果たして住人は居るのだろうか?そう考えてしまう程、このアパートはいつも沈黙している。
悪者が悪行を成す為だけに存在するような、希薄な巣窟。しかし確かに自分はこの場所に、
安息を見出しているのではないか?
疲弊と睡魔に混濁してきた脳が、ふと、聞き慣れない音を聞いた。
けたたましい水音…シャワーを使っている。
ガバ、と森田は半身を起こし辺りを見回す。
水音は、すぐ傍から聞こえている。
他の部屋ではない、この部屋の中から。
無心に、暫くその水音に聞き入る。
意識と目だけが爛々と冴え渡る。
心臓の鼓動が血流とともに体内を駆け巡る。
寝袋の淵を握り締めながら、その音が止むのを待った。
キュ、キュッ、と蛇口を捻る音に続いて水音は、止んだ。
ヒタ、ヒタ…タイルを叩く足音に、森田は固唾を呑んだ。
一点を凝視しすぎて、視界が歪んできそうだ。
襖の向こう側から、脅威は蠢きこちらへ近づいて来る。
やがて静かに開かれた襖は、朧げな光と蒸気を誘い込みつつ、森田の居る部屋と隔たれた空間を繋いだ。

「…森田」

灯りを背に立つその人は、温かい雫を滴らせて立って居た。
「銀…さん」
空気の振動と思しき自分のあまりにも弱弱しい発声と、目の前の光景に眩暈を覚える。
絶句したままの森田に、彼はフ、と微笑んで
「ボロだけど、シャワーだけはついてるんだ」
と屈託無く言い放つ。
「…それは、前も…聞きました」
「そうか」
スタスタと部屋に踏み入り、森田が鎮座しているすぐ横へすとんと座り込む。
おもむろに取り出したジッポと煙草に火を点けると、そこへ薄い唇を近づけて深深と吸い込み
満足そうな紫煙をふう、と吐き出す。
そうして寛ぐのが、習慣であるように。
「何…してるんですか」
宵闇で銀髪と一体化してしまいそうな白い裸体を目の前に、森田は悪い夢でも見ているような心持だった。
「何…って、お前と同じだぜ?」
細長く骨ばった指先で煙草を摘み、唇から離して平井は切れ長の瞳を細めた。
「俺もここに、ちょくちょくシャワー浴びに来てんだ」
「??」
「…ってのは冗談だが」
「銀さん…」
「クク…そんな顔するな、森田。随分久しぶり…だな」
「…はあ」
フィルターまではまだ随分あるのに、まだ長さのある煙草を近くの灰皿に押し付けて…
灰皿なんてこの部屋にあっただろうか?
平井は鋭利な刃物のような美貌を森田に寄せる。
「俺に会いたかったんだろう?」
湿り気のある唇が、魅力的な低音を諸に森田の耳にぶつけてくる。
未だに湯気の立ち上る素肌には幾つもの熱い雫の粒が煌き、森田は思わずその肩を引き
寄せる。
「…風邪、ひきますよ」
触れた素肌は柔らかく、張り詰めていて、直に指先から流れ込んで来る人の体温に懐かしさを
覚える。
引き寄せたところで、自分が今し方迄入っていた寝袋しかないが。
取り敢えず作業着も兼ねている自前の上着を脱いで、目の前の人物に急ぎ羽織わせる。
「悪いな…」
「いえ…」
それから黙って、森田は平井の体を抱き寄せた。
首筋から立ち上る香りは、間違いなく本人のもので。
かつて謳歌した快い感覚を、森田はひっそりと肺に仕舞い込む。
今の今まで、積もっていた思いの数々は行為によってのみ表現し得る気がした。
後頭部の銀髪の間に差し込んだ指の腹を地肌に密着させ、改めて目の前の顔を窺う。
色素は薄いが、人の心を意のままに操れる術を熟知しているその瞳が妖しく光を放ちながら、
森田を見つめ返す。

「 」

「…?」
何事か呟いた唇はしかし、言葉を紡ぐのを止めて微笑み森田に口付ける。
「ん…ッ」
優しく覆い尽くすようなキスはやがて頑なな唇を割り開き、ねっとりと熱い舌が歯列に絡むように入り込んで来た。
「…は」
堪らず隙を作ってしまった歯列の間をするりとくぐり抜け、平井の舌は森田の縮こまった舌を
捕らえた。
舌先で吸い上げ粘膜を蹂躙するその淫猥な蠢きに翻弄され、きゅっと目を閉じた森田は平井の肩から腰へと腕を伸ばしてぐい、と抱き寄せる。
外気に剥き出しであるその部分は既に硬く膨張しており、自分の腰に届いた時点でハッとする。
それを自覚してかしないでか、煽るように動かす平井の腰に扇動されて下腹部に重い疼きが
走る。
この、突然振って沸いた状況に言葉で示せる情緒は許されず、只お互いの虚無を埋めるのには率直な欲望だけが優先された。
「銀…さん」
凍えるような室内、相手を気遣って寝袋の上へ仰向けに寝かせ自ら覆うように圧し掛かる。
平井の首筋へ、頬へ、舌を走らせている内、下方でチャックの開く音がし、
続いて冷たい手のひらが弄ろうとズボンにするりと侵入してきた。
「ッ…!」
誘い出された一物は待ち構えていた平井のそれに握り合わされ、
骨ばった指先に強めのストロークで同時に扱かれる。
「あ…ッあ…」
只指や口中で奉仕される場合と異なり、熱い芯同士が擦れ合う感覚は痺れにも似た圧倒的な快感を呼び起こす。
堪らず眉頭を寄せて喘ぐ森田にフフ、と微笑み平井は気持ち良いだろう?
と行為のみで語り掛ける。
外気の冷たさも忘れ、相手の体温を夢中で貪りながら森田は夢とも現実ともつかぬ空間を彷徨っていた。
先走る体液の雫が互いの性器を濡らし、熟れた果実のように昂ぶる中、これ以上無いであろう自らの忍耐の底を悟った森田は下方で掬い上げた体液を指に絡ませ、平井の後孔に塗り込める。
ろくに慣らしもせず、性急に其処に押し入って相手が小さく悲鳴を上げるのにも構わず第二関節まで指を埋めた。
平行して擦り合わせたままの芯からは耐え難い快楽が押し寄せ、脳髄から身体中をビリビリと刺激する。
以前そうしていたように、平井の肉の急所を探り当ててぐりぐりと刺激する。
「…ッ」
指先で感じる内部のぬめりと締め付けに安堵を覚えつつ、さらに急き立てようと指の本数を
増やす。
「や…ッ…あ、あっ!」
「どうして…?銀さん、奥の方弄って欲しいんでしょ…?」
「ッ…う」
切れ長の、普段は冷たい瞳に泪を浮かべて見上げる平井の様は森田の若い野獣染みた欲望を掻き立てた。
理性の箍が外れて猛り狂った切っ先を後孔に押し付け、そのまま一気に突き立てる。
「!!」
内臓や筋肉が拒否するのも構わず、ゴリゴリと音を立てて抽出を繰り返す。
目の前の、愛しい人が震えながら項垂れる様を眺めながら空白の数年をこの欲望で埋め尽くしてしまおうと森田は必死に平井の深部へ腰を力強く叩き付けた。
無遠慮に出入りし続ける森田自身に、堪らず平井は腰を浮かせて最深部へ招き入れると同時に内部でそれをきつく抱擁したまま果てた。
根元から絞り上げられるような入口の筋の動きに触発され、森田もすぐ後を追うように自らの白濁を平井の中にぶち撒けた。


…たぶん果てっぱなしで眠り込んだのだろう。
森田が次に意識を浮上させたのは、部屋の内部が白々しく明るみ始めた頃だった。
抱き込んでいるはずの人は影すら見当たらず、寝袋に体よく収まっているのは自分只一人だけだった。
「…あれ…?」
見れば確かに昨夜の行為の名残は残っていて…早くこのガビガビを何とかしなければ。
のろのろと寝袋から這い出し、気温の寒さに身震いしながら備え付けのシャワー室へ向かう。
所々罅割れた白いタイルを眺めながら、蛇口をひねり水がお湯へと変化するのを待つ。
身体が非常にだるい。
当然だ。疲れていたくせに見境無く励んで…
…一体、誰と?
湯気を立て始めた飛沫が音と共に水蒸気でシャワー室を包み込んで行く。
ぼんやりと湯に打たれながら、ふと足元の排水溝を見つめる。
小さく粗末な造りのその穴に、森田から抜け落ちた数本の長い黒髪と湯濁流の渦になって吸い込まれて行く。
しばらくじっとそこに目を凝らしてみたが、
銀糸のような髪の毛はついに見つける事が出来なかった。